Shall we dance? No,thank you.
- 作者: 広江礼威
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2009/10/19
- メディア: コミック
- 購入: 17人 クリック: 905回
- この商品を含むブログ (193件) を見る
OVA BLACK LAGOON Roberta’s Blood Trail Blu-ray001〈初回限定版〉[Blu-ray]
- 出版社/メーカー: ジェネオン・ユニバーサル
- 発売日: 2010/07/17
- メディア: Blu-ray
- 購入: 4人 クリック: 156回
- この商品を含むブログ (13件) を見る
そんなロベルタ編のクライマックスである最新9巻にロベルタの恩人の子息であるガルシアのこんな台詞がある。
許せるもんか。僕は貴方を許さない。ずっと貴方のしたことは忘れない。貴方個人が望むと望まないとにかかわらず、ぼくの家族も何もかも滅茶苦茶にされてしまった。貴方は自らの信じる善と矜持に従って、生きようとする人々を救おうとした。でも、そのために貴方が用いたものは、死と暴力だ。
そしてまた彼女(ロベルタ)も。貴方もロベルタも、ずうっと死の哲学の中にいる。誇りや善徳を旨にして、その身を持って戦い続け。それでも貴方たちが作り出す結末は、いつも死と破壊で幕を閉じる。それを繰り返して、また繰り返して。さらに多く、その光景を見せつけるだけだ。それは、暴力の行使だけが、すべてを解決する手段だからだ。過去の贖罪も、過去の救済も、暴力が前提だからです、少佐。
(中略)皆同じ、死の舞踏を踊っている。彼らが嘲笑と共に廻り続ける死の舞踏を貴方たちも、ずっと踊り続けている。これ*1を使うことは、僕からすべてを奪った「死の舞踏」を踊ることにほかなりません、ならば誰がそんな舞踏に加わってやるものか。少佐は僕に、「復讐の権利がある」と説きました。それならば、僕は敢えてその権利を使わない。自ら踊るのも誰かに踊らされるのも御免だ。それが「死の舞踏」への、僕からの抵抗だ。
私事ではあるが、つい先日Twitterを辞めたのはまさにこうした考えに近い。(全てが一緒ではないが) 状況的にドラマとはいえ上記の例は現実的な場面として描かれているが、僕の場合はよりどちらでもいいネットの中の話だ。それによって生活をしている訳でもないし、それによって命を賭けている訳でもない。例えば明日、このページが何の前触れもなく消えていたとしても、僕が死んだ訳でもないし、他の経路で(それこそネットを使って)知人とは連絡もとることはできる。実際、Twitterを辞めても他の手段で友人知人とは連絡は取り合ってるし、ネット外では直接話もしている。
僕のTwitterと同様、ネットではよく揉め事が起こる。それぞれ別人格を持った人が会うのだから当然起こりえる事なのだが、少し上の言葉を思い出してもらえるといいかもしれないと思った。「死の舞踏」を踊るのもまたひとつだけれども、そんなのに乗らない、踊ってやらないというのもまたひとつの方法でもある。別にネットの1サービスを辞めたとしても死ぬわけじゃない。そもそもそんな所で生活をしている訳でもないし、ネットでの信用なんてあってないような物だし、このidにしても社会的に信用足りえる物ではない。なのでネットでの信用や名声は取るに足らないものだ。そんな程度の所で精神を擦り減らし、明日の現実の仕事や家庭生活、他の趣味に影響を及ぼすのなら、卑怯と言われようが臆病者と言われようが「舞踏に加わってやるものか」と言い切る方が僕は賢明な選択だと思う。
何度も書いてきたが、経済的ないし業務上目的があって議論を行うのは社会的信用も伴い重要な事と思うが、ネットはそのような物はないのが大半だろう。*2もし、貴方がネットの議論で勝ち負けや存在を賭けたバトルをしたがっているかのような状況に巻き込まれたのなら、迷わずどうぞと勝ちを譲ってあげればいい。それで貴方の貴重な時間は守られる。その時間を有意義に使う方がいい。人生は思ったよりも短いのだから。