表現の野放図
先日のアニサマの人種差別問題は記憶に新しいが、また先日このような騒動がおきたそうだ。どうも最近ネットのオタク関連で人種差別を元とした話が多いように感じる。
この陳列された漫画は「日之丸街宣女子」と「テコンダー朴」の2つ。コメントを見ると「テコンダーは反日漫画だ」などいろいろでているが、こう発言する人たちは対立構造でしか思考できていない。そもそも反日だから左翼は怒るべきではないとか、親日だから右翼向きだというような次元の話ではないのだ。反日だから親日だから左翼だから右翼だからという問題ではなくて、こうした国家・民族・人種の差異を侮辱的に使うことでエンターテイメントとし売りにするのが実に醜悪だという事だ。*1
丁度、昨日パリで市民を狙ったテロがあった。その前に同じパリでシャルリーエブドの事件があった。シャルリーエブドの事件は何が引き金だったか思い浮かべてほしい。
「表現の自由」と言葉にするのは実にたやすい事だ。だけれどもこれらの表現を「表現の自由」と簡単に述べていいものだろうか?これらの表現は表現される側の心情を全く考えていないと僕は考える。確かに「表現の自由」は大切なものだろう。だけれどもそれは野放図であってはならない。表現対象の事を慮る事を忘れてはならないのだ。シャルリーエブドの事件も過激だろうと表現ではある、しかし相手の信仰や文化を題材に侮辱的に表現していいわけではない。
結果、暴力的報復行為で事件は起こってしまった。表現は自由でなくてはならないが、そこには責任が伴う。相手を侮辱的に表現するのも自由ではあるが、その結果代償として払わされた責任は命だ。暴力的報復は絶対に許してはいけない行為ではあるが、先に引き金を引いたのはどちらなのだろうか。このような相手を慮らない表現を僕は無責任に思う。これは「表現の自由」ではない「表現の野放図」でしかない。
規模は違えど、悪意をもって差異をエンターテイメントにしているのが問題なのだ。この悪意が日本に向かっているのであろうと、韓国に向かっているのであろうとそんな事はどうでもいい。国家や民族、人種単位に向かっていて、個別である個人で評価しない事の醜悪さを僕は問題視する。こんなのは全体主義思想だ。
このような差異を侮辱的に使うことでエンターテイメントにして売り物にする著者、出版社には責任がついてまわる。当然、このようなコーナーを作成したコーナー担当者、およびその管理者たる店長、及び企業として指導徹底できなかった株式会社虎の穴にも責任がある。これについては正式に回答を求める文章を送りたいと思う。売れるからおいていい、というのは資本主義の原理からすればいいのかもしれない。だけどそれは僕には無責任に思う。
余談として、全体主義というのは非常にやっかいなものだという事も書いておこう。「死ねよオタク」という言葉に反応したオタク趣味者の一部の人達は「オタク差別」と受け取ったが、正直僕は重度のオタク趣味者であると自負はしているものの、全く差別とも思わなかったし、感情的に揺らぐこともなかった。掲載画像からオタクでもどういう人に向けて発せられているか直ぐに理解できるからだ。これを「オタク=自分」とし、自分が言われたと思うことが全体主義的な思考なのだろうと思うのだ。
結果、反日漫画だ、左翼だ右翼だ、オタク差別だという枝葉末節に思考が流され、人間としてこうした差異を侮辱的に扱う事でエンターテイメントにする文化、表現の自由を許してもいいのだろうか?表現の自由は無制限に自由なのか?という問いかけにはならなかったのが残念でならない。
そういう意味も含め、また全体主義的な問いかけであった点も含めて、最初の問いかけである「死ねよオタク」は暴力的で乱暴な表現であったと批判指摘はしておきたい。ただ、想像で賄える程度ではある。id:haikyo氏はおそらく誰が全体主義者なのかという問いかけも含めたギミック的にあえて「オタク」と乱雑に括ったのではと僕は感じたのだけれども、こうした方向に収束してしまうのは失敗だったのではないかと思う。逆に言うと、それだけ全体主義に無意識に囚われている人が多いともいえるのだろう。